遠き親へ:シリーズ介護・第1部 主婦・岡田さんの場合
高齢化のスピードが最も速いというこの国で、私たちは身近な老いとどう向き合えばいいのだろうか。社会の支えは万全か。日本の介護をさまざまな角度から見つめる「シリーズ介護」の第1部は、子世代の目線で遠くに暮らす親について考える。まずは東京都町田市の主婦、岡田久美(ひさみ)さん(53)の物語から??。
◇「帰る」 東京拒んだ父??転倒、入院…呼び寄せの末
高松市に住む83歳の父が「要介護4」になり、町田市の私の家に急きょ呼び寄せたのは05年5月のことでした。その翌月の夜中、物音で目が覚めると、父がかばんを抱え廊下に寝ています。「すみこ、すみこ……」。そうやって何度も母の名を呼ぶのです。廊下は冷たく、父は熱を出していました。
母が亡くなって17年間、父は1人暮らし。自転車に乗ろうとして庭で転んでしまいました。入院生活で筋力が落ちて立つこともできなくなり、妄想など認知症の症状も表れました。見舞いに行くと、活発で陽気な父が見る影もなくやつれ、足も細りきっています。
もう東京に呼び寄せるしかありませんでした。なるべく環境を変えぬよう、実家から使い慣れた孫の手や小物入れを持ってきて、父を迎える和室に置きました。認知症の本で対処法を学び、寂しくはないかと傾聴ボランティアも呼びました。
でも元気を取り戻すにつれ、父は「帰りたい」と訴えるようになったのです。
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私たち夫婦が千葉のマンションを売ってこの家を買ったのは、いずれ父を引き取ろうとの思いからです。金融機関に勤める夫(55)の母は、夫の兄が世話しています。私には横浜に弟(47)が1人いますが、嫁が一人っ子なのでいずれ義理の親をみなければなりません。
ホームシックの父を励まそうと、週末に弟が訪ねてきて、父の手を握り、話し相手になってくれます。昔の人は長男が大事だと言いますが、弟がいると父はとても機嫌がいいのです。でもその弟もあまり来られなくなりました。嫁の母親が末期がんで余命1年とされ、義父ともども横浜に引き取ったからです。
父はつえをつけば歩けるまでになり、投薬治療で認知症の症状も和らぐと、以前より強く「帰る」と言うようになりました。ヘルパーも「今帰っても大変。もう少しいては」と説得したのですが、「いやワシは向こうで死んでも構わん」と。
そして昨年4月。私は父を高松へ連れて帰りました。
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男ばかり5人兄弟の父は私をとてもかわいがってくれました。転んでちょっと顔に傷ができただけで大騒ぎしたものです。私が東京で働く高校時代の先輩と結婚する時も反対一つせず、孫ができると上京し、運動会で一緒に綱引きをしてくれたこともありました。
だから私も父を大事にしなきゃ、その一心で頑張ったつもりでしたが、何が足りなかったのでしょうか。
すべて女房任せだった父が母に先立たれた時は、とても心配しました。でも父は「平気だ。帰ってこんでいい」と、料理も一人でできるようになっていったのです。私が離れて過ごした30年間に父なりの暮らし方を身につけていたのでしょう。
それを分かっていたはずなのに、つい小言が出てしまった。お菓子や揚げ物ばかり食べちゃだめ。慣れない家の台所に立たせてはいけない。世話しているつもりで干渉し過ぎたのかもしれません。
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瀬戸内海を望む、生まれ育った町で、父の2度目の1人暮らしが始まりました。デイサービスに通い始めた施設から、節分の写真が届きました。鬼の角をつけた父の笑顔は血色も良く、すっかり若返っているではありませんか。
私が世話するたびに「ありがとう」と言ってくれていましたね。でもやっぱり、ふるさとが良かったのね。
こうして私の遠距離介護が始まりました。=題字も岡田久美さん
◇75歳以上の1人暮らし、30年には05年の倍に国立社会保障・人口問題研究所によると、75歳以上の1人暮らしは05年の197万世帯から30年には429万世帯に上る見通し。夫婦のみ世帯も171万から337万に急増、子や孫と同居する人の割合は年々減っていく。
さらに総務省の03年調査では、65歳以上の単身者で子が徒歩5分以内に住んでいるのは9人に1人。親子の距離はますます遠くなっている。
故郷の親に介護が必要になった時、子はどうすべきか。10年前に「遠距離介護」という言葉を世に出したNPO法人「パオッコ」の太田差惠子理事長(47)は「親と自分がどうなっていくか見えず、多くの人が不安になる。呼び寄せやUターンが困難でも、遠距離介護という方法もある。故郷の介護サービスなどを調べ、悔いのない選択を」と話す。
◇毎月帰省、1年で限界 再び父転倒、周囲も力尽き
「要介護4」で1人暮らしの父(83)を高松市の実家から東京都町田市の自宅に呼び寄せたものの、「帰りたい」と言われた岡田久美(ひさみ)さん(53)。都会になじめなかった父は、ふるさとで再び1人暮らしに挑戦することになった。
「おかえり」「待ってたよ」。地元の人たちに温かく迎えられ、父は昨年4月、故郷の自宅に戻りました。
病気がちで認知症の父の生活は地域の協力なしには成り立ちませんでした。例えば病院の処方せんを扱う薬局の老夫婦。薬を1包みにまとめ、飲み間違えぬよう朝は赤、昼は緑、夜は青のペンで印を付けてくれます。向かいに住む私の同級生は、ヘルパーが仕分けしたゴミ袋を集積所まで運んでくれます。
なぜみんな親切なのか、遠距離介護をするようになり初めて知りました。父は昔、自治会長で、みんなのいろんな相談に乗っていたのだそうです。「よう助けてもらった。男手が必要な時には必ず出てくれてね」と散髪屋さん。おしゃれな父の手を引いて店に連れ出しては、暑さ寒さに合わせ、髪を整えてもらっています。
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上京する時「要介護4」だった父は「要介護1」に改善しました。でも暮らしを支えるサービスは以前と同様に必要です。デイサービス、デイケアをそれぞれ週2回。ヘルパー派遣を毎日2?3回。介護保険で利用できる分が減り、実費負担は月15万円に跳ね上がりました。
私はほぼ毎月帰省し、ご近所や親族、病院、施設をあいさつ回りします。運賃、皆さんへの手みやげ代、帰省の間ペットの犬を預けるホテル代など、1回の帰省費用は10万円近く。東京に戻れば夫や息子たちの世話が待っていて、クタクタです。
そんな話を同じ年代の友人にしたことがあります。「私は毎週なの」。一人っ子の彼女は実母の住む仙台と夫のいる東京で1週間おきに暮らす生活を5年以上続けているというのです。私はまだまだ恵まれている。それにしても遠距離介護をしている人って、なんて多いのでしょう。
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大好きな演歌を聞き機嫌よく過ごしていた父ですが、やがて頻繁に発熱するようになりました。私は絶えずケアマネジャーと電話で連絡を取りました。偏食なので野菜ジュースを飲ませてはどうか。いかに水分を補給するか??。「娘さんの思いが伝わってくるので、私たちも動かなきゃ」と言われ、心強く感じたものです。
故郷に住みたいという父の思いをこのまま支えていこう。状態が悪化したら、仲のいいケアマネがいる近くの特養ホームに入れてもらおう。そう思っていました。
ところがこの春、事態が一転しました。以前も転倒で歩けなくなった父が、また夜中に室内で転び、特養に短期入所したのです。顔なじみのヘルパーがおらず、嫌いな物を食べようともしません。困り果てたケアマネは、父と一緒に食事したり、空腹で困らぬようにとおにぎりを握り、枕元に置いてくれたりもしました。
ケアマネも力尽きてしまったのでしょうか。ついに言われました。「ご家族が近くにいないと、いざという時に対応を即決できません。もう無理では」。特養への入所を申し込むと伝えると、「子供が遠方にいる人はだめ」と断られました。
弟(47)が切り出しました。「今度は僕が面倒をみるよ」。大学生の息子を下宿させて横浜の自宅に父を呼び寄せるというのです。父も納得しました。
遠距離介護は1年で終わり、私たち家族はまた新しい局面を迎えたのです。
◇苦労した父へ、募る感謝??家族の歴史、帰省通じ見直す
東京都町田市への呼び寄せに失敗し、父(83)の1人暮らしを遠距離介護で支えてきた岡田久美(ひさみ)さん(53)。だが父は認知症も進み、1年で限界に。今度は久美さんの弟(47)が横浜の家に引き取ることになった。
7月15日、遠距離介護最後の日。私は羽田空港から高松行きの便に乗りました。「最後まで高松に住む」と言っていた父を弟夫婦の家に連れて行く手伝いをするためです。
父はいつ故郷に戻れるのか分かりません。でも寂しさは口にせず近所の人に「息子が来いって言ってくれた」と自慢しています。「いい息子さんね」と言われ、うれしそうです。せめてこの家は残してあげたい。翌日、父を見送った後、私は実家を片付けました。
ここに誰もいなくなると、ふるさとが遠くなるようで寂しい。遠距離介護は苦労の連続でしたが、帰省のたび幼なじみに会えるのが楽しくもありました。
私の中学の卒業アルバム。弟の書道の作品。整理していると思い出が顔を出します。引き出しの中に写真を見つけました。町民運動会の観客席で、父と20年前亡くなった母が笑っています。私はその写真を持ち帰りました。
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横浜の弟のマンションで、父の新たな生活が始まりました。
薬剤師の義妹は一人っ子で、母親が末期がんになったため両親を引き取りました。母親を看(み)取ると、父親は「田舎に帰る」と言い、今は離島で1人暮らし。今度は義妹の遠距離介護が始まったわけです。
それに加え、働きながらうちの父まで在宅介護するなんて、どれほど大変なことでしょう。でも義妹は愚痴ひとつこぼさず、毎晩、父の晩酌に付き合ってくれているようです。
弟夫婦には感謝するばかりですが、私は拍子抜けしてしまいました。おじいちゃん、元気なの? 我慢できず弟の家に電話すると、父は「なんでかけてくるんだ」とつれなくて。でも新しい環境で暮らし始めたのだから、私への悪態もストレス発散になるかもしれません。「ここにいても仕方がない。後はお迎えに来てもらうだけだ」なんて言っています。
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介護をしながら、私は親にどんなふうに育てられたのか、親とどんな関係だったのかを考えさせられました。
苦労するだけして、定年後の生活をゆっくり楽しむ時間もなかった母。私と弟が故郷を出た後、長患いする母をみたのは父でした。私は自分の育児で精いっぱいで、母は父に任せっきり。危篤の知らせを受け、幼子の手を引いて高松に着いた時には、もうひつぎが家に戻っていました。
だからどんなに苦労しても、父を大事にしたい。頑固すぎて困るけれど、父がずっと1人暮らしで頑張ってくれたからこそ、私も弟も今の生活がある。そう気づきました。
おじいちゃん、様子を見に行きたいけれど、今は我慢します。でもたまにはそっちから電話して、元気な声を聞かせてね。【出典:毎日新聞】
介護保険は、介護の社会化にその意義があったはず。しかし、それはちがっていた。「市場化」にあったのだ。国は、責任を放棄してはいけない
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