9 月 03 2005
『自己責任=自立』
9月11日投票の衆議院選挙が始まった。
仕方のないことだが。テレビや新聞をはじめとするマスコミは、連日選挙関連のものになる。
政策に関係することならまだいいのだが、「是か非か」だとか、「刺客」だとか、「劇場型」だとか、そんなものばかりが際限なく流されるたびに、見てはならないドロドロとした人間の裏側まで見えてしまって気分が重くなる。
あまりにも陰湿で、さまざまな思惑が絡み合い、何でもありの生々しさに、より一層、気分を悪くさせる。
いくら聴き心地の良い「ことば」を並べてみても、心なき「ことば」には、重みも何もない。
だから、失望も隠せない。
できることなら、子どもたちには、あまり見て欲しくない大人の「ありさま」だ。
その「ありさま」は、少し大袈裟なのかもしれないが、9.11のアメリカ同時多発テロ以降の世界と重なり合う。
同時多発テロ以降、認め合うものと認め合わないものとに、二分化されてしまった世界。
あのときから世界は、自分たちこそ正しいんだという認め合わない同士が戦い、傷つき合っている。
いつ起こるのか、いつ終わるのか、誰も解らない。
認め合わない同士が、お互いに認め合う努力を一つひとつ続けていかなければ、必ず取り返しのつかない過ちを犯してしまう。
他との違いを認め合うことこそが、多様性を認めることこそが、いま世界には、とても必要なことだと思う。
世界も、社会も、そして、人も、二者択一の世界では生きていない。
それほど、単純なことでない。
そして、ある日の朝刊。
先の国会で廃案になり、次期国会で再提出される障害者自立支援法について、実際にヘルパーの方に介助を受けている障害を持つ方のインタビューが掲載されていた。
今回の自立支援法にある原則一割の自己負担を求めようとしている考え方は、「自己責任=自立」というものに根付いているのではないかと話されていた。
「自己責任=自立」
自分の責任で「自立」をする。「自立」をしていく。
とてもあたりまえで、疑問のないところだ
だが、この時の「自己責任」に違和感を持ってしまうという。
本当に「自立」できるのかと思ってしまうからだ。
もし、「自己責任=自立」であるとしたら、偶然にも「障害」を持ったことも、その後に起こるであろう「障害」から来るさまざまなハンディキャップ(社会的不利)ついても、すべては、その本人や家族の「自己責任」であり、国の責任を回避、放棄しようとする考え方になる。
また、インタビュー記事の中で印象的だったのは、インタビューを受けた方が街を歩いているとき、最近では、ぜんぜん目を合わす人がいなくなったと言うことだ。
あまり余計なことにはかかわりたくはないと言うことなのか、まったく目を合わすことなく通り過ぎていく。
これでは、外出中、通りがかりの人に急な介助を求めても、なかなか話しかけられない。
そう言えば、私自身、思い当たるところもあり、窮屈さを感じたことも少なくない。
「おまえら障害者は、何も働かないで国からお金をもらっている。いいご身分だよ」
こんな言葉を見知らぬ人から投げかけられたことが、数回ほどある。
インタビュー記事にも、同じようなことが書かれてあった。
そのときは、とても冷静には考えられなかったが、いまは、そうでもない。
確かに、いいご身分だ。
それだけ、誰もが生き苦しいのかもしれない。
そう考えると、やはり、「障害」を持ったことも、その後のさまざまなハンディキャップ(社会的不利)も、介護や介助を受けることも、すべては、みんな「自己責任」なのかもしれない。
自分自身の「自立」は、すべて自分自身が責任がある。自分自身が責任を持つ。
他の誰のものでもない。自分自身の人生なのだから。。。
自分自身の生き方には、その責任を持とう。
自分自身の人生なのだから。それが「自立」なのだから。
しかし、「障害」は、身体の「障害」も、社会参加・社会生活を阻むハンディキャップ(社会的不利)も、私たち本人にも、家族にも、その責任は負えない。
個人で負うには、あまりにも重たい「責任」である。
私一人では、もう背負えない。
だからだ。
私自身もまた、「受け身の自己責任」から、自分自身の人生に自分自身の責任で、自分自身が積極的に関われる「ポジティブな自己責任」にしたい。
9月11日。
アメリカの同時多発テロが起きたこの日。
私の国では、衆議院投票がある。
今回は、ぜひ行きたいと思う。
私自身のポジティブな自己責任を果たすために。。。
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