2 月 09 2002
昇り龍の優しさ
学生の時、一人旅行をした時のことである。
宿泊したビジネスホテルには、24時間いつでも入浴できるという大浴場があった。
もちろん、部屋ごとにユニットバスはあったが、やはり小さくて狭い。
自分でお湯を溜めて入るのだが、その時は、旅行疲れもあって、それすら面倒になっていた。
自分でも、ひどく疲れていたことが解っていたので、明日の旅行のためにも、今日はゆっくりと風呂に入って休みたい。
ここは、思い切って大浴場に入ってみることを決めた。
夕食を済ませると、しばらく自分の部屋でテレビを見ながら過ごしていた。
いつの間にかベットの上で寝てしまっていて、気が付いたときは9時を過ぎていた。
「いまなら、誰もいないだろう」
あわてて起きあがると、急いで大浴場へ行く用意をした。
着替えやすい格好をして、バスタオルを首にかけ、エレベーターで一階の大浴場へ向かった。
ちょうど、その時間帯だったのか、二、三人の湯上がりの宿泊客と、深夜勤務のホテル従業員だけで、大浴場へ行くまでにあまり人に会わなかった。
大浴場の男性用入り口にも、多くても四、五人分のスリッパだけで、予想したように混んでいないようだった。
大浴場が混んでいないことに安心しながら、脱衣場で服を脱ぎ始める。
この間、五分以上経ったかもしれないが、すでに二人の宿泊客が上がっていったから、それほど周りの人たちに気を遣わず、ゆっくりと入浴ができる。
どうにか服を脱ぎ終わると、ロッカーの鍵を左手首にかけると、大浴場のドアを開けた。
ムッとする熱気、湯気で霞む大浴場には、浴場の中に一人と、洗い場でシャンプーをしている一人、合計二人しか見あたらなかった。
しかし、計算が合わない。
答えを探そうと大浴場の中を見渡すと、『サウナ室』と書かれた扉が見えたので、きっともう一人は、そこにいるのだろう。
勝手に納得をすると、濡れたタイルの床に滑らないように、足下に細心の注意をしながら、五つほど並んでいたシャワー口の左端へ向かう。
そして、ゆっくりとタイルの床に座ると、シャワーの蛇口をひねり、ちょうどいい暖かさのお湯を出していく。
軽くシャワーを浴びると、据え置きされたボディーソープやシャンプーを使い、身体から髪へと洗い進む。
ちょうど髪を洗おうと、シャンプーを手に取っていたとき、ギシッと言う扉が開く音がした。
大浴場のドアは引き戸だったから、音の様子からして、サウナ室に入っていた人が出てきたのだろうと思った。
それ以上のことは考えることもなく、髪を洗い始めた。
髪に泡が立てられるようになった頃、自分の後ろに誰かしらの気配を感じた。
浴場の中にいた人なのか、先に洗い場でシャンプーをしていた人なのかと思ったが、聞こえてきていた音では、そんな様子はない。
きっと、サウナ室から出てきた人がシャワーでも浴びようと来たのだろう。
できれば、後ろを振り返って、目で確かめたいのだが、髪を洗っている最中。
シャンプーの泡が目に染み始めてきていたから、これ以上の痛さが容易に予想ができるのに、それを敢えて無視して、目を開くほどの根性なんかはない。
少しだけ気になりながらも、髪を洗い続けた。
その時だ。
意識して気にせずにいた後ろの気配の主から声がした。
「兄ちゃん、髪を洗っとるのか?」
その声は低く、関西弁のように聞こえた。
(うっ、兄ちゃん?)
一瞬、髪を洗っていた手の動きが止まったが、自分に向けられたものでないと、そのまま髪を洗う。
「兄ちゃんよ、髪を洗っとるのか?」
また、後ろの気配の主から聞こえた。
しかし、まだ自分自身に向けられたものでないと信じ込み、黙々と髪を洗っていた。
「難儀やなぁ、手伝ってやろか?」
(難儀? 自分のことか?)
さすがにここまで聞くと、自分に向けられた言葉だと解る。
でも、顔じゅうシャンプーの泡だらけになっていた状況では、答えようにも答えられない。
仕方なく、右手を左右に大きく、後ろの気配の主に振って答えた。
「いいから、いいから。こんな時はお互い様やからな」
後ろの気配の主は、私が遠慮していると受け取ったようだ。
「あっ、いいです」
口の中にシャンプーの泡が入ってくるのを我慢しながら、やっとのことで声を出したが、その答え方が、ますます誤解へと進んでいく。
「いいか、兄ちゃん。しっかりと目と口を閉じとるんやぞ」
そう後ろの気配の主が言うと、頭の上に大きな左手らしきものが置かれた。
その感覚は、ヘルメットでも被せられたかのように、頭全体を覆い、がっしりと重たく感じた。
それだけでなく、無駄な抵抗など微塵もできないほど威圧感があった。
大きなお世話状態の中で、二、三回頭を動かすなど、後ろの気配の主へのささやかな抵抗を試みたのだが、やはり無駄だった。
あとは、運を天に任せた。
「目と口を閉じたか? お湯をかけて、シャンプーを流すぞ」
後ろの気配の主は、私と話しているうちに用意したであろう風呂桶のお湯を、頭からかけた。
いままでの話口調から言って、きっと乱暴に髪を洗われるのだろうと覚悟していた。
しかし、そんな私の覚悟は、すぐにうち消された。
後ろの気配の主の動作一つひとつが、とても丁寧だった。
お湯が耳の中に入らないように片方ずつ耳を押さえながら、ゆっくりとお湯をかける。
そのお湯も、熱くもなく温くもない。
まさに人肌のような暖かさだった。
「兄ちゃん、もう一度はじめから洗うでな」
後ろの方で、何かゴソゴソとしているなと感じながら待っていたが、すぐに手で泡立てられたシャンプーが、ふわっと頭の上に置かれた。
後ろの気配の主は、直接シャンプーを頭にかけることをせず、いったん自身の手の中でシャンプーを泡立てていたのだ。
一度、理髪店で同じようなサービスを受けたことがあったから、その職業の人なのかなと思うほどだ。
「兄ちゃん、痛かったら言ってな。それと、痒いところもな」
後ろの気配の主は、強弱を付けながら指の平のところで、髪を洗ってくれている。
どこかマッサージを受けているようで、本当に気持ちがいい。
ここまで丁寧にされてしまうと、後ろの気配の主が誰であろうが、もうどうでもいい。
私は、どこの誰だか解らない後ろの気配の主に、すっかり安心して任せていた。
それにしても「兄ちゃん」と呼ばれることには、少し恥ずかしかった。
シャンプー、リンス、そして、マッサージ。
とくにこのマッサージは、頭だけでも気持ちよかったが、なんと両肩や両腕、両脚、腰までも、からだ全身になった。
「兄ちゃん、いかんで。肩こり過ぎとるぞ。ここ、気持ちいいやろ」
そんな話を聞きながら、多分30分以上、後ろの気配の主がマッサージをしてくれた。
あまりにも気持ちよさから、いつの間にかウトウトと眠くなっていた。
旅の疲れは、すっかりなくなっていた。
「兄ちゃん、終わったで。あとは、ゆっくり湯船に浸かりや」
ポンポンと頭を軽く叩かれた瞬間、ビクッとして目を覚ました。
そうだった。
後ろの気配の主に髪を洗い、マッサージをしてくれているうちに、完全に眠ってしまっていたのだ。
一瞬、何が起こったのか解らず、ボーっとしていた。
「すまんな、驚かせてしまって。でも、湯冷めするといかんからな」
自分の後ろから聞こえてくる話し声で、やっと後ろの気配の主のことを思いだした。
そして、お礼を言おうと慌てて、声のする方向へ振り返った。
「はよ、湯の中に入り。暖まらんと」
手ぬぐいを絞りながら、そう後ろの気配の主は笑いながら話しかけてきた。
初めて見る後ろの気配の主。
その風貌は、俳優の高倉健さんのような感じがした。
そして、体格のいい筋肉質な両腕には、紺と赤の左右対称の模様が見えていた。
まさに、古いビデオで見たことがある、仁侠映画に出演されていたときの高倉健さんのようだった。
まったりとしたリラックスした状態から、一挙に緊張状態へと変わる。
そして、さらに心臓はドキドキして、ますます緊張が高くなる。
助け船を求めようとしたが、それぞれ忙しいらしく、誰も目を合わせてくれない。
二回目の運を天に任せながら、とにかくお礼だけは言おうと思った。
「あっ、ありがとうございました」
やっとの事であっても、どうにか言葉にできたことで、ホッとした。
「いいから、いいから。そんなことより、湯船に入るで」
右手を左右に振りながら答えると、気配の主は、浴場への上がり口の所まで歩いき、私が来るのを待っている。
それは、湯船の中へ入りやすいように介助をするためにだということが、すぐに解った。
だが、すぐには行けなかった。
それは、気配の主の背中に、美術画のような綺麗で、精悍で、それでいて周りが凛とした空気に一変させてしまう『昇龍』が描かれていたからだ。
まるで、自分が仁侠映画の中にトリップしたようだった。
もはや、断ることはできない。
三回目となる天へ、これからの運を祈った。
緊張の極致で、歩いている感覚がおかしい。
水で滑りやすくなっていたタイルの床に、さらに転ぶことがないよう注意しながら、湯船まで行った。
「さてと、どうすればいい。一人で大丈夫か?」
気配の主は、私が転ばないかと、本当に心配をしているようだった。
普段だったら、「大丈夫です。一人で入れますから」と答えて、多分一人で湯船の中に入るだろう。
しかし、いまは、それを言う勇気がない。
「後ろを支えるようにお願いします」
「そうか、解った。足もと、気を付けてな」
後ろの気配の主は、快く答えて、私の背中に回ると両脇のところに手を通し、身体を支えてくれた。
「これでいいか。ゆっくり入ればいいからな」
「あっ、はい」
後ろの気配の主の介助は、動作慣れしているプロの介助でもなく、痒いところまで届いてしまう素人の介助でもない。
歩いているとき、自分で自由に身体を動かせるように窮屈でなく、それでいて万が一、後ろへ倒れそうになったとき、すぐに支えてくれるような安心感がある。
要所、要所を押さえた介助だった。
気配の主とハンディキャップを持つ自分。
大浴場の中に二人並んで、湯に浸かっている。
『仁侠道』一筋の仁侠映画には、絶対にない滑稽なワンシーンである。
そのおかしさに思わず、吹き出してしまうのを、必死に噛み殺す。
時には、自分のハンディキャップも、人との関係を繋いでくれるのに、とても役に立つと感謝した。
じんわり、身体全体が暖まってきた。
一人の世界に入りながら、ボーっとする。
極楽、極楽である。
そんなとき、隣にいた気配の主が話しかけてきた。
「兄ちゃんも、やっぱり気になるか?」
「えっ?」
「背中の龍。さっきから怖がっていたからな」
「そんなことはないですよ」
否定しながら、否定にならないことは解っていた。
もうすでに見抜かれていたのだ。
「背中の龍は、俺の守り神なんや」
「守り神?」
「そうやな。兄ちゃんが気に入ったから、話を聞いてくれるか?」
「はっ、はい」
それからしばらくの間、隣にいる気配の主は、自身の背中に刻まれている『昇り龍』のことについて話し始めた。
何故、『昇り龍』を背中に刻んだのか、どんなことがあったのか、何も隠すことなく話してくれた。
その人にとって、確かに『昇り龍』は、守り神そのものだということが解った。
同時に、一生涯、守り神を背負い続けて生きていかなければならない哀しい理由も解った。
この時、その人のこれまでの生き様を、一緒に辿ることが出来て、本当に良かったと思うと同時に、ハンディキャップを持っていると言うことだけに甘えてしまっていた自分自身を、とても恥ずかしく思った。
何故なら、私自身と比較できないほど、気配の主は、自身が置かれている状況の中で、とても生きることに真摯さを感じたからだ。
「まっ、そういうことや。すまんな、長いこと付き合わせて。そろそろ上がるか?逆上せてはいかんからな」
そういうと、隣にいる後ろの気配の主は、ザバッと立ち上がると、湯船の中に入るときと同じように、介助のために上がり口のところで立ち止まっていた。
この時、背中に刻まれている『昇り龍』が、哀しい涙を流しながら泣いているように見えた。
ふと、思った。
いつも私は、ハンディキャップという外から見えるものだけで、私自身までも判断され、評価されることに、何度となく砂を噛む思いをした。
何よりも嫌だった。
人は、外見から判断してしまうことは、とても自然なことであり、その『外見』の中にハンディキャップも含まれるとしても、それはごく自然であり、仕方がないことだと思う。
だか、その『外見』だけで判断されてしまったことを変えていこうとするには、ものすごい時間とエネルギーが必要になる。
簡単にはできない。
それを身をもって解っていた自分自身が、同じことを『昇り龍』の人にしてしまった。
『昇り龍』の人は、私のハンディキャップという『外見』も含めて、ありのままにまるごとの自分自身を見て、受け入れようとしている。
初めは私を見て、「何だ、こいつは」と思ったであろう。
しかし、そこで終わることなく、人として関わろうとしてくれた。
いや、そうしようと努力をしようとしてくれたのかもしれない。
だが、それにもかかわらず、私は、背中に刻まれた『昇り龍』という外見だけで判断し、その人自身をありのままに見ることも、受け止めることも出来ず、最後にはその人と関わりたくはないと思った。
外見からその人を、その人自身を判断してしまう想いが、よく解った。
涙を流すように見えた『昇り龍』は、自分自身のこころを映し出し、教えてくれた。
大浴場から上がった私たちは、それぞれ着替えにかかった。
「兄ちゃん。手伝うことがあったら、言ってな」
「はい」
それだけ顔を見合わせて言うと、またそれぞで身支度を続けていった。
人と人とのちょうど良い、大切な距離感覚も、またこの人から学ぶことが出来た。
数分後、せっかく流した汗を再び掻きながら着替え終わった私が、浴室から出てきたとき、入り口には、二本の缶ビールを持った『昇り龍』の人が待っていた。
「おう、着替えたか。兄ちゃん、ビール飲めるやろ。のどが渇いたから、うまいぞ」
「はい、ありがとうございます」
今度は、本当に嬉しく、一緒にしてもらった。
待合室のようなところで、ソファーに座りながら、その人と一緒にビールを飲む。
ビールを飲む前に、私が「ストローが欲しい」と我が侭を言ったが、「おう」と言っただけで嫌な顔を見せずに、わざわざ遠く離れた食堂までストローを探しに行ってきてくれた。
ビールの空き缶がたまってきた頃、私がストローでビールを飲む姿を見ながら
「兄ちゃん、ますます気に入ったな。今日は、酒がうまい。部屋で飲み直そう。付き合ってくれるか?」
「あっ、はい」
『昇り龍』の人は、周りを気にすることなく、大きな声で笑っていた。
この日、私が寝入りに入ったのは、夜明け近かったことは言うまでもない。
翌日の朝、二日酔いで気分の悪い私を『昇り龍』の人は、自分の車に乗せ、ちょっとした市内観光のドライブをしたあと、駅まで送ってくれた。
私にとって、知らない土地で、知らない人と、かけがえのない時間を過ごすことが出来た。
優しい『昇り龍』とともに、忘れられない思い出、忘れることが出来ない一人となった。
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