1 月 28 2002
いのちの大切さ
毎年、一年の中で今日、自分自身の中で強く思い浮かぶ言葉がある。
それは、『いのちの大切さ』である。
学生だったときからのことだから、もう数十年以上になる。
いろいろと考えながら、そして、これまでの想いを確認しながら、静かに過ごすことに決めている。
そして、今日。
ある新聞記事に目がとまってしまった。
昨日、東京で起きてしまった、路上で生活を余儀なくされている方への中学生による集団暴行事件。
社会というより世界中が、より力のない者へ犠牲を強いてしまう構造。
「自分(自分たち)さえよかったら」という中で、もうすでに自らの中では歯止めが利かなくなってしまっている。
このニュースの中で、事件を起こした生徒たちの中学校の校長が、『いのちの大切さ』を在校生たちに訴えたと言う。
もちろん、毎日の授業の中で、『いのちの大切さ』については、大切に取り上げられていることだと思う。
ただ、同じような事件が起きるたびに、『いのちの大切さ』という同じようなコメントばかりを聞きながら、どこかでその虚しさに慣れてしまったような気がしてならない。
時間のない中で、朝刊のページをめくり、記事を読み進む。
アメリカで起きた同時多発テロ事件から始まってしまった、アフガニスタンへの戦争。
『テロ撲滅』という言葉で正当化された戦争は、世界各地へ広がりつつある。
利益優先という企業論理の中で、『ユーザとの信頼』という企業の生命線を自ら断ち切ってしまった企業。
『ユーザとの信頼』がなくなってしまった企業には、その存在価値もなくなりつつあり、その様子には、テロ事件以降アメリカの行動を支持続けた世界各国の態度と、それに翻弄され続けたアフガンの人たちとの関係に、どこか同じものを感じてしまう。
さらには、まだ、まだ豊かな日本の中で起きてしまった、介護苦から自らの、最愛の人の、いのちでさえ絶たなければならないほど追いつめられてしまった人たち。
ひっそりと、小さな記事が掲載されていた。
容赦のない、残虐な集団暴行をせざるを得なかった中学生たち。
テロという残酷で、卑怯な方法でしか、日々苦しんでいる自分たちの存在を、いのちを、無理解な世界中の人たちへ訴えかけざるを得なかった人たち。
その先の他との関係があることを理解せず、自己中心主義の行動しか取らざるを得なかった人たち。
社会から孤立し、いのちを絶つという最後の問題解決方法を選択せざるを得なかった人たち。
この人たちが、本当に言いたかったこと、本当の原因については、新聞のどこにも書かれていなかった。
そして、明日になれば忘れ去られ、またいつの日か同じような出来事が、どこかで起きている。
それぞれの行為自体、支持もしなければ、正当性があるとは思わない。
ただ。。。
『いのちの大切さ』
そして、この人たちの想い。
自分には、何が出来るのだろうか?
目の前で繰り返されている事象以外、大切な何かを見落としていないのだろうか?
今日の同窓会で会う友人たちは、どんなことを考え、話してくれるだろうか?
今日は、亡き友人たちとの同窓会の日。
ふと、いろいろなことを考えてしまった。
少しだけ、感傷的になっているのかもしれない。
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