8 月 17 2001
なぜですか?…だからなのかもしれない
昨日、ある歴史教科書が、養護学校の教科書として使われることになった。
一連の報道の中で、自分なりに考えたが、「何故、養護学校で使うの?」ということに対しての明確な答えが見つけられない。
というより、解らない。不思議である。
報道の中でも、誰にでも解る説明がされていない。
そんな中で、少し気になるコメントがあった。
それは、その歴史教科書を学校の教科書として使われることになった理由について、担当の方が説明されているものだった。
「病弱は健常者に近い。直れば直る。精神障害も青年期にかけての不安定さからくる衝動で、そうでない時には正常。ハンディの程度が(ほかとは)全然違う」
「内容の評価と障害への配慮の2点が論点になった。内容については評価する意見が多数を占めた。病弱と精神障害者は、普通の状態では健常者と変わらない。健常者にはどういう教科書がいいのかが採択の基準だった」
多分、教育論そのものにおいて、『健常者』と『障害者』を区別するのはおかしいということが、その主旨だと思う。
実際、『健常者』とか『障害者』とか、その区別をなくし、誤解や偏見を解決していくことが、教育だと思う。
でも、「それで、何故、養護学校で使うの?」という問いの答えになっていない。
それほど優れた教科書ならば、養護学校や普通学校を分けることなく、みんなで使えばいいはずだ。
優れているからこそ、養護学校で使うことに意義があるのだろうか?
そう思うことは難しい。
むしろ、ほかの意図を疑ってしまう。
何故なら、『健常者』という言葉は、強調しすぎるぐらい聞こえるのに対して、『学んでいる子どもたちのために』という言葉は、最後までなかった。
『学ぶ』ということに対して、『障害』は関係ないはずだ。
『障害』を持っていたとしても、自分自身の人生を自分らしく生きていくために、その生きる力を蓄えていくために、いろいろなことを学んでいく。
決して、『健常者』になるためでもなく、『健常者』に近づくためにでもない。
そんな自縛から解放し、あくまでも自分らしく生きていくために学ぶ。
「健常者に近い」とか、「健常者と変わらない」というところから始まっている『教育』の考え方には、もうすでに『健常者』と『障害者』の区別をより明確にし、そのことで起きている誤解や偏見の解決を放棄しているように思えてならない。
もっと言えば、「いつでも、これからも面倒を見ているのだから、少しは、こちらの言うことも聞きなさい」という、そんな傲慢さえ見える。
「何故、養護学校で使うの?」
「傲慢さ」
こんなことを考えてしまうこと自体、どちらもそれほど変わらないレベルなのかもしれない。
ただ、これだけは、はっきりと言える。
戦争は、人とひととが殺し合い、傷つけ合い、憎しみ合い、哀しむ。
いつまでも、いつまでもである。
そして、戦争は、多くの『障害者』を作り出す。
その『障害者』の一人として、もうこれ以上、自分と同じような想いをさせたくはない。
ということは、だからなのかもしれない。
「君たちの仲間ができれば、君たちにとっていい社会になる」
そんな『戦争』への幻想を作り出そうとしようとしているのだろうか?
でも、それは違う。
これ以上、もう自分と同じような想いをしなくてもいい社会を作っていくために、だからこそ、君たちは、真実を学ぶ機会を与えられたのかもしれない。
『障害者』の一人として。。。
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