「毎日が発見ネット」

1 月 30 2000

遠い彼を想いながら・看声が聞こえる

Published by webmaster at 13:02:49 under ことばの杜

気なくスイッチを入れると、テレビから熱狂する人々の大喚声が伝わってきた

1996年、アトランタオリンピック開幕

サッカー予選試合、日本対ブラジル戦

「彼は、元気でやっているんだろうか?」

白熱する試合の行方より、私は遠い彼のことを想っていた

「こんにちわ。少し話せますか?」

これが、彼から聞いた最初の言葉だった

ちょうど一年前、夕方の出来事だ

私は、迎えの車を待っていた

別に何かを想うということもなく

別に何かを看るということもない

ただボーっと、車の流れを追っていた

現実(いま)を通り過ぎて行く流れを…

流れ行く先、焦点が定まっていく大柄の男性が一人、軽快なステップを踏みながら、こちらに近づいて来るのが見えた

右手には、コンビニのビニール袋

左手には、缶ジュース

大きく膨れたショルダーバックを右肩から下げ、ヘッドホンを両耳にあてていた

彼は、私の前で止まって会釈をした

日焼けした顔、真っ白な歯人なつこい、優しい笑顔だった

彼は、戸惑っている私に追い討ちをかけた

「こんにちわ。少し話せますか?」

「はっ、はい」

《しまった》と思ったが、もう遅かった彼は、ゆっくりと私の名前を尋ねてきた

私は、ゆっくりと自分の名前を言った

でも、通じていなかった

《いつもと、同じか。仕方がないな》

もう一度、彼は私の名前を尋ねてきた

「イロジー、ですか」

「違います。ヒロシです。ヒ、ロ、シ」

「イ、ロ、ジー。イロジー、ですね」

「ヒ、ロ、シ。ヒロシです」

やはり、彼には通じなかった

私は、すぐに彼も諦めて、現実から通り過ぎて行くだろうと思った

私の想いに関係なく、いつもと同じように…

しかし、予想外の展開になった

彼は、ショルダーバックから手帳を取り出し、「IROJI」と書いて私に見せた

私は、「HIROSHI」と彼の手帳に書き直した

「ヒ、ロ、シ。ヒロシですね」

数十分後、何よりも嬉しい瞬間

国や言葉、それまでの煩わしさや諦め

そんなこと何もかも越えて

彼と私は、一人の人としてわかりあえた

《ありがとう。現実を看過ごさなくて…》

私は、仕事帰りの彼と話をするようになり、いつしか、そのことが楽しみになった

彼は、もう日本にはいない

自然に私の言葉が聞き取れるようになった頃、彼はブラジルへ帰って行った

きっといまごろは、家族みんなで楽しく暮らしていることだろう

「ヒロシ、頑張ってね。さようなら」

これが、彼から聞いた最後の言葉となった

「ゴール!ゴール!日本、ゴール!!」

遠くから聞こえてくるテレビの喚声

《ヒロシ、頑張ってね》

遠くから聞こえてきた彼の看声(かんせい)

私は、現実に戻されていた

「そうだな。また、頑張ってみるよ」

私は、遠い彼に言っていた

いつか、また

ブラジルにいる彼に会いたいと思う

現実の私自身を看てくれた彼に…

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