1 月 30 2000
タクシーの車内にて
「あっ、駅ね。OK、OK」
顔一杯の汗を掻きながら
私は、行き先を初老のドライバーに伝えていた
ほんの数分前
もう、すっかり忘れてしまっていた
初老のドライバーの優しい笑顔
流れゆく窓の景色
タクシーの車内には、ゆったりとした時間が過ぎている
久しく感じたことのない時間の流れ方だった
「お客さんは、これからどこまで帰るのかね」
「岐阜です」
「岐阜? そう、岐阜かね。この雲行きだと、向こうは雷だね」
タクシーが向かっている方向は、空が真っ黒になっている
「そうですね」
気さくに話しかけてくれる初老のドライバーに短めの相づちを打つ
緊張もほぐれ、余裕も出てきた
身体にも、こころにも…
夏の蒼々とした木が両側に映える
街路樹のトンネルをタクシーが通り抜けている
「お客さん? この通りは、木が多いだろう」
「多いですね」
また、短めに相づちを打つ
決して、話をするのが面倒でなかった
むしろ、嬉しかった
しかし、私自身、ハンディキャップを持っている
あまり長い文章を話してしまうと、うまく伝わらないときが多い
何よりも、その場の空気を一変させてしまう
人と人をはざかうもの
人と人のこころをはざかうもの
「ハンディキャップ」は、そう言うものかもしれない
「両脇にある木は、銀杏の木だよ」
「銀杏ですか?」
「そう。秋になると、銀杏の葉が落ちて黄色い絨毯を敷いたようになるよ」
「綺麗ですね」
「綺麗だよ。この通り、一面が一杯になるんだから…」
初対面の人と長く続く会話
このまま会話を終わらせてしまうのが、何だか勿体ない
私は、思い切って自分から話しかける
「美味しいですよね」
「えっ?」
一瞬、初老のドライバーは、バックミラーでこちらを見た
車外の車の音しか聞こえない
車内には、気まずい雰囲気が流れる
私は、調子づいてしまったことに後悔した
じんわりと背中が汗ばんできた
その場をどう取り繕うか、それだけで頭の中はいっぱいになっていた
赤信号となり、ブレーキを踏みながら、初老のトライバーは、「あっははは」と笑った
「銀杏、銀杏ね。美味しいね。茶碗蒸しとか、天ぷらにもいいよ」
「塩でも…」
「あっ、そうそう。塩ゆでも美味しいな」
それまでの車内の雰囲気も
それまでの私自身さえも
一掃されていった
その後、また初老のドライバーとの会話が弾んだ。
初老のドライバーにとっても
私自身にとっても
全く予測していなかったことだった。
駅までの約二十分間、本当に楽しい時間を過ごすことになった。
「お疲れさま。ここでいいね」
「あっ、はい」
駅に着いた私は、慌てて財布を取り出す
しかし、私が持っている『ハンディキャップ』が
それまでの車内のゆったりとした雰囲気を
また壊しにかかる
「慌てなくても、ゆっくりでいいからね。降りるとき、足下に気を付けてね。ありがとう」
初老のドライバーの言葉
私は、本当の自分自身に戻ることが出来た。
「気を付けてね。ありがとう。ありがとう」
初老のドライバーは、優しい笑顔を向けてくれた
もう一度頭を下げると、私は、改札口の方向へ向かった
人のこころの温かさを感じながら…
夏の終わりの日
また、ひとつの暖かな思い出が出来た
『ハンディキャップ』
こころの自縛が、人によって解かれていく
はざかうものが壊れていく
タクシーの車内にて…
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